2010年04月09日

父と私

今日は無き父の命日でした。
今から6年前、2004年の4月9日明朝。
家族に見守られながら、静かに息を引き取りました。

皆さんにとっての父親とはどんな存在でしょうか?
怖いけど優しい存在。
頼もしい存在。
日頃は無口だけど、お酒飲むと楽しいお父さん。
煙草の匂い、分厚くて大きな手、広くて大きな背中。

子供の頃に見ていたお父さんというのは、きっとそんなお父さんだったのだろうと想像します。
私は残念ながらどれにも当てはまらない存在でした。
子供の頃には「自分に父親はいない」と自分自身に言い聞かせていました。

私の父は、私が物心ついた頃には、家におりませんでした。
元の実家に母親(私からすればおばあさん)と一緒に暮らしていました。
離婚していた訳ではありませんが、一緒に住めなかったのです。
今で言う別居状態です。
でも、最後まで離婚はしませんでした。

なぜ別居していたのかと言うと、精神的な病気を患い、家庭内で暴力を振うようになり、子供たちの事を考えて別居したのだと思います。
とにかく私が物心ついた頃には、家に父の姿は無く、時々実家から家に来る程度でした。
幼い頃は特に何も思いませんでしたが、さすがに小学校に入ると、他の家庭と違う事に気付きました。

子供同士で「おまえのお父さん仕事何してるの?」という話になり、自分の家庭が違う事に気付き、それからは父親の事を聞かれるのが嫌になりました。
精神的な病気ですので、当然仕事もしていません。
それがとにかく嫌で、いつしか父に対して憎悪の念を持ち、子供心に「自分に父親はいない」という結論を導き出したのかも知れません。

時々実家から来ていた父は、酒を飲み大声で叫んだり、夜中にも関わらずわけの解らない歌を歌っては、母が「子供たちが寝ているから静かにして」と、父を寝かせようとしていた声が、今でも耳に残っています。
下手な言い方をすると、父が切れて暴力を振るうので、母も言葉を選びながら父を寝かそうとしていました。

仕事もしていない上に、時々家に来ては酔っぱらって醜態を晒す。
そんな父親でしたから、本当に父が憎くて憎くて仕方ありませんでした。
母親一人で子供を育てている状態に、さらに父親が負担をかけてしまう。
今ならとっくに離婚しているような家庭環境ですが、当時は離婚するなんて世間体にも恥ずかしいし、何より小さな村です。
離婚したらそれこそ村中の話題です。
母はとにかく耐えて耐えて、私たち子供4人を育ててくれました。

小学生の内は本当に父が憎かった私ですが、中学〜高校と成長する中で、次第に父親を見る目が変っていきました。
中学に入った頃には、父の暴力も少しマシになり、狭い家で一緒に暮らす事になりました。
決して父を受入れた訳ではないのですが、父親として見るよりも、哀れな一人の男として見るような感覚になっていました。

高校に入るとさらに私の方が身体も大きくなり、父も歳をとりますます弱々しくなっていきました。
酒を飲んで酔っぱらう事も無くなり、暴力もすっかり無くなりました。
私の父を見る目も、哀れみから今度は子供を見るような感覚に変っていきました。
父に何かを求める事も、期待する事も何もありません。
ただただ、残された人生を自分なりに精一杯生きて欲しいと思うようになりました。

私たち子供が巣立った後は、母と二人暮らしで、時には農作業に出たりしていたようです。
老人クラブ等にも参加したりして、父なりにそれなりに精一杯生きたのだと思います。
ただ、私たち子供にとっては、父を残して母が先に逝ってしまわないように願う日々でした。
決して父の死を望んだ訳ではありません。ただただ、父を残して母に逝ってほしくないという思いでした。

父が倒れて回復の見込みが無いと解った時、正直安堵の気持ちがあったのも事実です。
冷たい言い方に聞えるかも知れませんが、父が散々母に苦労をかけた事への、せめてもの償いは父が先に旅立ってくれる事でした。
決してそれを待ち望んでいた訳ではありません。しかし、速かれ遅かれどちらかが旅立ってしまう。
その時はせめてもの償いで、残りの人生を母に残してあげて欲しい。そう思っていました。

父が倒れて入院して、2回ほど家族で見舞いに奄美まで帰りました。
しかし、その後はやはりなかなか帰れない。
簡単に帰れる距離ではありません。
いつしか入院してから1年が過ぎました。
その頃から父の様態が悪化し始めました。

そして6年前の4月7日。
実家から父が危篤状態との連絡を受けました。
4月中旬には用事で奄美に帰る予定があったので、正直そこまで持ちこたえられないか?と迷いましたが、翌日息子を連れて大阪の姉と共に、飛行機で帰りました。
その判断が結果的には正しかった。

私が病院に着いた時には、父は既に意識が無く、目もまばたきすら出来ない状態でした。
もちろん話しかけても反応はありません。
ところが、教会の会長さんが来て、神様に最後のお願いをした時の事。
神様への最後の言葉を聞いていたのでしょう。
まばたきひとつしない、父の目からボロボロと涙がこぼれて来ました。
父もこれが最後だと解っていたのでしょう。
そして感謝の気持ちを涙で現したのだと思います。

その後はただただ時間だけが過ぎ去り、夜中になりました。
何度か痙攣を起し、その度に家族が手を握り父を呼びました。
そんなことを数回繰り返し明朝。
最後は静かに眠るように息を引き取りました。

医者から死亡を告げられた時は、悲しみよりもちゃんと旅立ってくれた安堵感のような気持ちが強かった気がします。
それから親戚や会長さん、そして私は残してきた嫁さんへ父の他界を連絡しました。
その時は何ともなかったのですが、親戚が一同駆けつけて、叔父や叔母の顔をみた途端、涙がこみあげて来ました。

それからはお通夜、葬儀の準備に慌ただしく追われる時間帯。
正直悲しんでいる時間はありませんでした。
今から思えばそれが良かったのでしょうね。
仕事で最後に間に合わなかった弟も、東京から駆けつけ、嫁さんも義兄と駆けつけ、人数が増えた分悲しみも分かち合えた気分でした。
お通夜の時には、家族や親戚で昔話で笑ったりしていた事もあったくらいです。

でも、最後のお別れの時。
棺桶のフタを締める時。
家族皆で最後の花を棺桶に添えた時。
私は無意識に4才の息子を抱きかかえて「おじいちゃんの顔よく見ておけ、ちゃんと覚えておくんだぞ」と涙を流しながら息子に話しかけていました。

今でも振り返ってみると不思議です。
決して誇れる父では無かった。
それでも息子に自分の父親の顔を忘れないように見せようとした自分。
憎しみさえ抱いていた時があった父を、自分の息子に必死に見せようとした自分。
やはり私は父の息子なんだなと、今改めて思う。

確かに父は私に、何一つ父親らしい事はしてくれなかった。
それでも私たち子供を残してくれた父。
私はいつの日からか、自分が父親になったら、目一杯父親をしたいと思うようになったのかも知れません。
私の父が出来なかった分を、私が息子や娘にしたあげたい。
きっとそれを父も望んでいる事と思います。

父の命日に6年前の事を思い、感傷に浸ってしまいました。
かなりの長文になってしまいましたが、最後まで読んで頂いた方がおられましたら、ありがとうございます。
父は死してようやく私と親子になったのかも知れません。
そして父として果たせなかった想いを、今私たちの傍で見守ってくれているのでしょう。
posted by island(ふくはらしゅんじ) at 23:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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